平成23年6月28日 更新
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平成23年6月釣り日記
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平成23年6月22日(水)
東日本大震災

平成23年6月28日(火)
東日本大震災その2


2011年6月28日(火)
東日本大震災その2



近くの人から写真をいただいたので、追加です。


私の自宅のすぐそばにある広田町の大野海岸ですが、100m沖にテトラポットがあります。

その水深は約7〜8mぐらいです。

そのテトラが底まで見える写真をいただきました。




ちらは震災前の夏の大野海岸(手前)、田谷海岸(奥)です。

夏の最盛期写真ですね。






こちらは3月11日の震災時の様子です。

テトラの底が
見えるくらい大きく波が引いています。






 沖で波が引いて一気に波が押し出してきました。






防波堤を超えて、波が引いていきます。

左奥に見えているのがシャワー室です。

シャワー室の高さはおよそ8mぐらいと言っていたので津波は10mぐらいの高さはあったと思われます。




大野地区が防波堤で、せき止められて湖になってしまいました。





こちらは翌日の上と同じ場所です。




こちらは別な人が撮った写真で、上の写真よりやや左側から撮った写真です。



こちらは市会議員さんからいただいた写真です。

広田小学校から広田中学校を撮った写真です。

避難所指定になっている中学校の1階まで押し寄せています。

中学生たちはいち早く、その上にある広田水産高校の校舎の上にある校庭へ逃げたので全員無事でした。

先生たちの素早い判断が生徒たちの全員の命を守ったのです。


何度見ても、自宅が流れている写真は嫌ですけど、やっぱり日本全国の人たちに見てほしいです。



2011年6月22日(水)      ページトップへ / トップページ
東日本大震災


高田松原の上空から撮った写真です。

高田松原の松はほとんどが消失し、ガレキ化としております。

陸前高田の震災後の写真を特集された方もいらっしゃいますので、紹介します。

rsaito.com 陸前高田動画、震災写真106枚

陸前高田市津波被害


東日本大震災関連の本はこちらで


 震災から約3か月立ち、インターネットもつながるようになりましたので、更新しました。

 なかなか、思い出してうまく書けないかもしれませんが、当日のことを思い出しながら書いていきたいと思います。


写真は津波直後の3月12日の朝6時に米崎側から撮った写真です。




3月11日(金)午後2時45分ごろ、そろそろ休憩時間にしようかと思った矢先に

マグニチュード9.0、震度6の大地震が5分以上にわたって襲いました。

今まで経験したことのない大地震で治まる気配のないくらい揺れました。

天井を見ながら屋根が落ちてこないかと不安になりましたね。

書類から茶碗類からすべて落ちました。ガラスも割れましたね。

防災放送では3メートルから5メートルの大津波警報が出されていたんですが、指定避難所近くにいたため、大丈夫かと思い、ガラスの後片付けをしていると、外からバキバキする音が午後3時15分ごろ聞こえてきて、外に出てみるとすでに高田市内が水浸しになっていました。

そこへ今度は高田松原の近くにあるキャピタルホテルの4階あたりまである波がまっすぐ防波堤の上から平行に押し寄せてきて、建物や人が乗った車、道を走っている人を飲み込みながら、内陸へ内陸へと押し寄せていきます。

自分がいた場所は高さ30mぐらいだったんですが、津波は奥へ奥へと低いところを目指して、流れ込んで行きました。

高さは10m以上あったと思います。

水の上には港にあるはずの船や自動車が浮かんで、一緒に流れていきます。

「まだ上がるのか、まだ上がるのか。」と思いながら、上に逃げる準備をしながら、波に飲まれそうな人に「早くにげろ、上に逃げろ!!!もっと大きい波がきてるぞ!!!」と叫んでいた思いがあります。

もうここは危ないからダメだと思い、津波の様子を見る間もなく、避難してきた人を誘導したりトイレを貸したりして避難してきた人の誘導に当たりました。

水が引いたと思われる時間帯には塩水で通電したと思われる車のクラクションがバッテリーが無くなるまで響いていました。

どんどん避難してきた人たちが上がってきて、さらに車も置く所がないくらい入ってきて、その一般方たちの誘導にあたり、「水はないのか?毛布はないのか?トイレを貸してください。うちの人は避難していませんか?」の声に対応しました。

地震直後までは携帯がつながっていたんですが、津波と同時に停電となってしまい、通信手段が奪われてしまったようでした。

みんなどう対応して良いのかわからないくらい混乱して、肝心の食糧、飲料水が不足し、食糧を調達する電話などの通信手段がありませんでしたので、その日の夜は、お茶だけ回された記憶があります。

夕方から運悪く雪も降ってきて、さらに風も吹いてきて、畳や椅子を風よけにしてカーテンから布団から何から温まるものなら何でも引き裂いて使いましたね。

電気がないので、車のヘッドライトをつけたり、施設のバスを解放していただき、そので暖まっていただいたり、施設の中に入っていていただいて残っている床暖の暖まりを逃がさないように床に寝たりしていただきましたね。

ずぶ濡れになった人もいてかわいそうでした。

ジャージにトレーナーと薄いジャンバーだったので本当に寒かったです。

幸い車に毛布やジャンバー、予備の靴、靴下、パンツ、Tシャツが入っていたので、ずぶ濡れになった人にそれぞれ提供しました。

携帯も固定電話もつながらず、自宅の広田半島の様子や家族の安否はぜんぜんわからず不安な夜を過ごし、近くから濡れた木を持ってきて、無理やり燃やして暖をとりましたね。

避難所の対応に追われて自宅に帰るのは危険と止められ、その日は水も飲まず、食糧も取らず、トイレにもほとんど行かず、一夜を過ごしました。

 
 

朝5時30分ごろ薄明りとともに見晴しの良い高台に出てみると、上の写真は米崎方面ですが、沼田こ船橋が流されて、米崎小学校の足元まで流されていました。

気仙大橋、姉歯橋も流されたと情報も入りました。

早朝とともに捜索隊が結成され、どんどん亡くなった人たちが施設に運ばれてきます。

毛布がないので、ブルーシートに包まれて診療所に運ばれていきました。

一夜あけて、女性職員たちを家に送るために気仙沼方面に向かったのですが、気仙大橋、姉歯橋が流されていてさらに竹駒方面も通れず、迂回、迂回して、今度は横田から矢作へ抜ける細い山道を氷の張る雪道を通り3時間かけて、気仙沼に抜けて送ってきました。

朝早く送っていったのにも関わらず、回り道ばかりさせられて、職場に戻ったのが、午後の5時を過ぎた頃でした。。

家に帰ろうとしたのですが、小友の只出と三日市方面、つまり大野湾と広田湾からの波が両方向から来たため、道路が寸断されて行けないと言われ、もう一日避難所に泊まることにしました。

と言ってもやはり、寝れずずっと避難所の対応をしていました。

人探しが多くて、対応が大変でしたね。

「うちの主人をしりませんか?うちの子供たちは来てませんか?」という訴えが多い中、「なんで知らねえんだよ。本当は知ってんじゃねえのか?」と殺気立って迫ってくる方もいましたね。

「お気持ちはわかりますが、こちらのリストに載っている方がすべてです。」と答えるしかなかったです。


 

こちらは陸前高田市の小泉地区です。

水が引かず、水たまりになっているところ、凍っているところさまざまでした。

見たくなくても遺体が見えていました。

津波警報が解除にならず、行きたくても行けない状況でした。

 

3日目にようやく家に帰っても良いと言われて、細い道を迂回して、地元の人でもさらに通ったこともない山道を走らされて、15分の道のりを1時間半かけて避難所になっている広田小学校に着くことができました。

それより先は、ガレキで通れないとのことで、自宅に行くことができませんでしたが、まずは家族探しをしました。

一番先に長男を発見、「よく生きていたなぁ。」というと「へへへ。」と鼻をこすって笑っていましたね。

私は泣いていましたけど。

「みんな生きているか?」というと「みんな生きてるけど、家がない。」と言われて、家族の無事を安心するとともに10mの高さにある家が無くなったのがショックでしたね。

家族みんなに会ったあと、自宅にいきました。


 

自宅周辺の道路です。

完全に繋がってはいませんが、津波後すぐ、重機が動いて、道路を広げたようです。


 

自宅はコンクリートの基礎と壁だけ残ってほとんどが消失していました。

津波後3日後は防波堤が、せき止めて水たまりになっていましたが、ポンプを使って水を抜いたあとの画像です。


ルアーマンさんがグーグルアースを見て、水たまりになっていたと報告してくれたのは、その水たまりだったかもしれません。


 

自宅周辺の防波堤です。

こちらの大野湾側の防波堤は破損は少なかったです。

足場もないくらいガレキだらけでした。

 

広田小学校前の田谷、天王地区です。

このあたりに私の家が流されていました。

毎日、車で寝ましたが、服を着ても寒くて一週間ほど1枚の毛布で過ごしましたね。

避難所の人たちに、「おまえのホームページでなんとか全国のみんなに助けてもらえないか?」と言われて、なんとかみんなの力になりたくて、電気もない中、車にあった車載専用の携帯充電器で文章を2〜3日かけて作り、電波を探しながら福島のサラリーマン岩魚太郎さんやアコワゴさんに送ったこともありました。

やっと、つながった衛星電話で3分だけって言われ、サラリーマン岩魚太郎さんの声を来たときは涙が出て

自分のことしか話せませんでした。

毎日ヘリコプターが飛んできたり、救援物資の毛布や食糧が来たりして、2週間目あたりから、だんだんと落ち着いてきました。

 

こちらはアップルロードから見た小友町です。

ガソリンが手に入らないし、自宅の車は2台流されてしまい、自分の車がタンス兼物置兼ベッドになっていたため、職場まで塩水のかぶった自転車で15kmの道を朝早く出て、夕方遅く真っ暗な道を年が40近いのに無理して?こぎましたね。

ライトは点かないし、チェーンは固着して外れやすくなっているし、

ブレーキは、サビてさんざんでしたが・・・。

それでも通勤の足として役に立ってくれました。



こちらは広田越田漁港側から見た広田湾です。

漁船が半分沈んで浮いていました。

イカダの玉が重なって浮かんでいましたね。


 

こちらは田谷浜側の防波堤の裏です。

防波堤が壊れて、奥まで土が削られています。

 

六ヶ浦漁港側から見た、田谷浜です。

砂がすべて流失してしまいました。

家があったところも削られて海になっています。



六ヶ浦漁港です。

 
メイン防波堤もサブ防波堤も切れて無くなってしまいました。




田谷浜です。

キレイな砂がなくなってしまいました。

 
 

六ヶ浦漁港の中でサブ防波堤が切れて、地盤沈下しています。

 

六ヶ浦漁港の全体像です。

メイン防波堤が切れています。

助かった船は数隻でした。

3か月自分の船をここだけでなく、大船渡や小友まで行って探しましたが、結局見つからず、廃船としました。

 

六ヶ浦漁港のメイン防波堤の根元です。

地盤沈下の影響で、防波堤と海の高さが同じになり、大潮の日はまた、津波かと思うぐらい浸水します。


 

こちらは六ヶ浦漁港の裏にある羽根穴地区です。

あわや広田湾側にある広田漁港からの波と大野湾側の波がぶつかるんじゃないかというぐらい奥まで波が入っていました。

 

2か月目に見つた私の愛用のホンデックスGP-62UのGPS魚探です。

基盤がはがれて、浸水し使い物にならない状況で、泣く泣く捨ててきました


 

広田小学校に慰問に来られた、ジェロさんです。

 

加藤登紀子さんも来ましたね。


最後の知床旅情は広田中に声が響いていましたね。


 

戦場カメラマンの渡辺陽一さんも来られ、

一緒に写真を撮りました。

渡辺さんと同じ年でした。

どっちが若く見えます?

なんて冗談を言っている場合ではなかったんでけど、会えてうれしかったです。

 

大野海岸を清掃するボランティアさんです。

福井県の方が多かったですね。

本当に助かりました。

 


こちらは震災前の大野海岸です。





こちらは震災後の大野海岸です。

砂が削られ、大きく地盤沈下しています。




今年の夏は、海水浴客は来るんでしょうか?

ここだけしか砂がありません。





私の家は右側の杉林で見えにくいですが、上から撮った写真です。

近所にあったヤマザキショップの青い屋根がここまで流されてきました。


 

この写真は広田町の市会議員さんが撮った写真で上の写真と同じ場所です。



今現在の状況です。

 


 


こちらは広田湾側から気仙川を上流に上りながら空から竹駒方面を撮った写真です。

ここまで来ないだろうと思われましたが、亡くなられたが多かったようです。

 
 




小友町の只出地区です。

湾の奥まで削られ道路が無くなっていました。

こちらからは只出漁港に近づくことができませんでした。

反対側から蛇ヶ崎に迂回するように行かないと行けません。


 

米崎中学校上空です。

米崎中学校の足元まで津波が上ってきました。

ユーチューブで流れている画像はこちらの映像だと思います。


 

高田松原の真上から撮った写真です。

写真には見えませんが、この真下に間もなく完成予定だった高田松原球場があります。



 
 
 上の写真と見比べていただければわかると思いますが、下の写真は青く塗りつぶした所が津波が来た場所です。

 赤い●印のところに避難して大丈夫でした。


富山県のかえでさん、水沢のあかむしさん、うろこ雲さん、盛岡のアコワゴさん、んだじゃ丸さん、山形の斉藤さん、東京世田谷の大森さん、友恵丸の小野さん、全国のヒラメ釣りファンのみなさん、たくさんの支援物資と義援金、応援メッセージ、本当にありがとうございます。

この場をもって感謝の言葉とさせていただきます。

必ず、近いうちに釣りが再開できるように頑張っていきたいと思います。





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